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うる星やつら完結編

「うる星やつら」を出崎哲監督つながりで「プレイボール」の視点から見る人間なんてほかにいないかもしれないが、ともかくDVDを借りてきて観てみた。僕は、じつは押井ワールドが全開となった「うる星やつら」ビューティフルドリーマーのファンでもある。
さて、「うる星」完結編の哲学は、ビューティフルドリーマーのそれと異なっている。やはり出崎ワールドは根源的に「まじめ」であり、実は「スポ根」なのであった。僕の期待する「うる星」像はどちらかといえば、押井ワールドである。とはいえ、出崎ワールドの話と割り切って観れば、楽しめる話ではあった。どちらが高橋留美子さんのお好みなのか・・・ 僕にはよくわからない。
以下話の中身が出てきます。まだ観てない人は見ない方がよいかもしれません。


お話は、「うる星やつら」劇場版第1作「オンリーユー」のプロットに近い。だが、奇妙な宇宙人の煮えきれないカップルのこじれ話から、地球が闇(というか巨大きのこ)に包まれる危機に陥る。で、この危機を救うには、あたるがラムの角をつかむ鬼ごっこに勝利するしかない、という話になる。
変な宇宙人の別カップルの話に巻き込まれて、ラムの心の中に、あたるの心に対する疑念が生まれる。「どうしてひとこと『好き』って言ってくれないっちゃ?」というわけである。地球を守るために必死の周囲は、「うそでもいいからともかく『好き』といってしまえ。」という圧力を強める。あたるはそれをいっそう言えなくなる。というわけだ。
出崎ワールドだなぁ。と思うのは、あたるの心中の解釈が実に明瞭。その行動から正しく観客が推測できるものとなっている。ということである。つまり、観客にとってわかりやすい。結局最後まで「好き」といわないが、ラムとあたるの関係は、収まるべきところに収まる。「完結編」ということでけじめをつけたわけである。
ラムがあたるの心に対する信頼を取り戻すきっかけは、とりすがるあたるの必死の行動と表情だ。出崎哲監督つながりで「完結編」を観るという遍歴を経た僕は、ここに墨谷二中ナインの姿と同質のピュアなものを見る。「完結編」の底流には実はスポ根友情まんががあるのだ。

僕の「うる星」観は高橋留美子のマンガの一部と、「オンリーユー」・「ビューティフルドリーマー」の押井ワールドによって形成されている。こちらはスポ根友情まんが的要素を極力排した世界であると理解している。一見そのように見える状況下でも、必ずその後に打消し(あるいは両義性の付与)が行われる。「照れ隠し」のようなものとも取れるし、「友情」とか「正義」というものの欺瞞性を嘲笑っているとも取れる。
ところがこの「完結編」にはこういう「照れ」のかもし出す緊張感が突き詰めるとない。一種の割り切りをしたのであろう。それだけに、深みという点でいえば、「ビューティフルドリーマー」にはかなわないと言えるだろう。完結させるという境界条件ゆえである。
一方で、高橋留美子は、「めぞん一刻」で五代の響子さんに対する一途な愛情を描いていることからもわかるように、男女間の愛情に関してはしばしば決してうそではない、心のそこからの実在=「真理」として描こうとする。ラムとあたるの関係もこれらの純愛のひとつであり、それが明るみに出るところで完結させたということだ。こういう割り切り方をして観る限り、ハッピーないい話なわけで、特に文句はない。
少々図柄がガチャガチャしすぎていて焦点が定まりにくいように思われた。また、話ももう少し物事を象徴的に表す工夫をすることによって、隙のないものに仕上げることができたのではないかという思いは残る。登場人物の性格を巧みに使うという点でも、残念ながら押井作品に圧倒的に軍配が上がる。

出崎監督で「うる星やつら」・・・? という取合せからくる齟齬はそのまま映画の中に見出されたが、「完結編」という性格も手伝って、幸せな齟齬を楽しませてもらうことができた。
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象(Zoo)

  • Author:象(Zoo)
  • 理系研究者です。科学好き、やや社会派、体を動かすのも好きです。

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